Tanabe(Maizuru) Castle / Cyber WorkShop in Maizuru 高速無料化 !!
 さてさて、2010/7月から舞鶴若狭自動車道(兵庫県三田市〜丹波篠山市〜京都府(福知山、綾部、舞鶴)〜福井県高浜町〜小浜市) が高速無料化(実験)されました。ぜひ、この機会に、丹波、丹後、若狭方面に、お出かけ頂くについて、西舞鶴の中心部を紹介 しましょう。西舞鶴ICで下りて、ここから、R175,R176で(あるいはKTR近畿丹後鉄道で(5人一日券2,000円という信じられない くらい安いキップもあります))で奥丹後の宮津、天橋立、峰山、網野、久美浜、に行かられるのもよいでしょう(綾部から宮津 までの京都縦貫道・北部部分は有料ですので、気をつけてください)。

無人野菜販売所(2010/7/11)

 梅雨まっただ中の2010/7/11(日)に自宅から西舞鶴図書館まで、傘をさして徒歩で出かけました。 カタツムリもたくさん散歩していました :-)、途中の無人野菜販売所で「満願寺とうがらし(あまとう)」 を買いました。これは舞鶴市発祥の名産品で、夏が旬で、焼いてカツオブシと醤油をかけると絶品です。 ちりめんじゃこと煮込んでもウマイ!
(舞鶴公園の近くには「丹の國JA(にのくに農協)」の販売所も あって強力にアピールしています。)

舞鶴公園 = 田辺(舞鶴)城址

 JR舞鶴線およびKTR(国鉄時代は宮津線)西舞鶴駅から徒歩5分の、 舞鶴公園を突っ切ろうとして、城門をくぐって眺めていると、左の写真の門の下のオジサンに話しかけられました。 実は無料の観光ボランティアの方で、いろいろと説明して貰いました。
以下、青字は「日本の城」 のホームページから引用させていただいた説明文です。
城門(舞鶴市田辺城資料館) 平成四年(一九九二)、本丸西側に復元された城門。 両脇には、長くのびた土塀と石垣も復元されている。 復元にさいしては、牧野氏時代の「丹後田辺舞鶴城御殿図」を 参考に、その中御門を想定して建設がおこなわれた。 総高十二メートル、門幅四・八メートル、 門高四.一メートル、左右塀の長さそれぞれ約三十メートル。 正面から見た城門 二階は、田辺城資料館となっており、田辺城の歴史をパネルや模型で紹介している。
田辺城資料館は無料です。中には、歴代藩主の家系から寄進された甲冑や、縮尺にこだわった精密な町並み模型 があり、何より、街道(京都、河守(こうもり:由良川方面に抜ける)、若狭)の起点が大手橋であったのが分かり、 東が伊佐津川、西が高野川、南が引土の深湿地帯、そして北が海である(最初期の平城である)舞鶴城の地形が 良く分かります。細川幽齋は関ヶ原前哨戦の田辺城籠城の際、宮津、峰山、久美浜の城は焼き払わさせ、戦える者を 田辺城に集めたそうです。そして、海から物資をどんどん運んだため、全然落ちなかったわけです。
下の写真2枚は、「日本の城」のホームページから引用です。
(左)牧野家ゆかりの甲冑(かっちゅう) 牧野家家臣の所蔵していた江戸時代初期の甲冑。実戦向きにつくられており、 兜と胴には強度を確かめるための火縄銃による試し撃ちの傷跡もみられる。 (右)田辺城復元模型


 西舞鶴はこのように城下町ですが、歴史的には東舞鶴の方が開けていて(縄文時代の丸木船が出土)地形が良く、 良田があったが、細川幽齋は収穫を上げるためと、城の防衛のため、あえて地形の悪い西舞鶴を選んだそうです。 (いろいろと視察は行ったらしい)。


隅櫓(彰古館) 昭和十五年(一九四〇)、本丸跡の西北隅の石垣上に二層の隅櫓が復元され、彰古館(しょうこかん) と名づけられた。 丹後・丹波地方は、「酒呑童子(しゅてんどうじ)」「安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)」 「浦島太郎」などの伝説の里であり、館内には、市指定文化財「糸井文庫」の資料から、これらの錦絵が展示されている。


上の写真中の石垣の一部は、籠城戦時の物が発掘したものだそうです。
門内の舞鶴公園は、本丸跡ですが、ひろびろとしたグラウンドになって、 十分サッカーができる広さです。また、武者行列もあるお祭りや、春には 桜の花見でにぎわいます。

心種園(2010/7/11)

心種園は、細川幽斎が古今伝授を行った庭園だそうです。「古今伝授」記念碑があります。


細川幽斎《細川藤孝は隠居後、幽斎玄旨と号する》ゆかりの庭園。庭園名は幽斎(ゆうさい)の和歌から付けられた。 慶長5年(1600)7月、関ヶ原の戦いにさいし、留守を預かる幽斎が西軍の福知山城主小野木氏らに包囲され、 50余日籠城。田辺城に籠城した幽斎が万一討ち死にすれば、歌道の奥義が廃絶することを憂慮した後陽成天皇は、 勅使を送り幽斎に開城を勧めた。しかし、幽斎は、開城は武人の本意ではないと固辞し、勅使に古今伝授の秘伝書と 和歌一首を託した。その和歌一首が下の歌です。
「いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」

変らない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです。 (そのように私の歌と心も残るならば有り難いことです) この秘伝書と和歌を伝えた場所が、心種園(しんしゅえん)に建っている「古今伝授の碑」 のところと伝えられている。 のちの城主牧野親成(まきのちかしげ)は、その歌にちなんで城内の庭園に「心種園」と名づけた。

 田辺城のあるじ細川藤孝(1534〜1610))は、武勇の将であるとともに、当代屈指の文化人であった。 京都の東山で室町幕府の重臣三淵晴員(みぶちはるかず)の次男として誕生。 足利将軍家・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。
 天正10年(1582)49歳で家督を忠興(ただおき)に譲り隠居、幽斎玄旨と号する。幽斎は、 「古今和歌集」の秘伝を三条西実枝(さんじょうにしさねき)から伝授されるほどの、この時代における歌道の第一人者であった。

◆古今伝授に守られた田辺城
 関ヶ原合戦の前哨戦として、石田三成方1万5千人の軍勢が田辺城を攻めました。忠興(ただおき)率いる 主力軍3千程が関ヶ原で戦い、豊後国杵築城では1千の兵が戦うなど、この時期細川家は4つの戦線で戦っていました。 そのため幽斎の軍勢はわずか5百人程度で、峰山、宮津の城を焼き払い田辺城に籠城しました。しかし、幽斎は文芸界の トップに立つ「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったため、古今伝授の廃絶を憂慮した 後陽成(ごようぜい)天皇は田辺城を囲む西軍の陣に勅使を送りました。「幽斎は古今集の秘奥を伝え帝王のご師範で、 神道・歌道の国師である。速やかに囲みを解くべし」…天皇の意向を知った西軍の諸将は大いに驚き、ただちに包囲が 解かれたのは有名な話です。幽斎は、わずかな手勢で52日間を小城に拠って戦い抜いたのでした。
(現地案内パンフレットより転載)

平野屋商店街あたり

平野屋商店街あたりは最も西舞鶴らしいところ、というより丹後・田辺藩の御城下町なので、 とても古風な風情があります。
 細川藤孝、またの名を細川幽齋が、高野川を西側のお堀とし、橋は大手橋しかかかっていなく、 そこがこの地方の交通の起点となっていたそうです。そして、このあたりに商工の町屋が集められ、 城下町として栄えていたそうです。関ヶ原の戦いの時に、舞鶴では細川幽齋が東軍に属し、 田辺城に籠城したことは有名です。
下の地図にある 「洋菓子のヒラノ」 は、家内の実家の実家で、江戸時代から続く老舗らしいです。ロボコンで全国大会に出場したときに、 特注の特大ケーキを作ってもらっています :-)


以下、 「日本の城」 のホームページから引用した田辺城のデータです。
田辺城(たなべじょう)データ
所在地 京都府舞鶴市南田辺
別名 舞鶴城(ぶかくじょう)
「舞鶴(まいづる)」の地名は、田辺城の雅称(舞鶴城)に由来している。
地形種類 平城。舞鶴市の伊佐津川と高野川に挟まれた平野部に築かれ、北は舞鶴湾に臨み、南は沼地という自然の要害地であった。2重・3重の堀と塁壁がめぐらされ、平城ながら堅固な城であった。
遺構 本丸・二の丸石垣  天守台石垣  堀
文化財指定区分 舞鶴市指定史跡
再建造物 隅櫓[昭和15年(1940)復元され、彰古館と名づけられた]
城門[平成4年(1992)復元。城門2階は田辺城資料館とされている]
沿革 天正8年(1580)、宮津城主の細川藤孝(幽斎)・忠興父子が築城に着手、数年後にほぼ完成した。田辺城には、慶長五年(1600)、関ヶ原合戦の前哨戦として、石田三成方の軍勢に包囲された田辺城に籠城した藤孝(ふじたか)が善戦、「古今伝授」の縁で勅命により和睦開城を実現したエピソードが残る。細川氏のあとに入った京極氏のとき大がかりな城郭の拡張がおこなわれ、次の牧野氏時代に諸門や石垣が整備された。田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在であった。明治6年(1873)、田辺城は廃城とされ、本丸と二の丸の藩主庭園が舞鶴公園となり、わずかに石垣が残された。